大判例

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最高裁判所第三小法廷 昭和63年(し)76号 決定

主文

本件抗告を棄却する。

理由

(抗告趣意に対する判断)

本件抗告の趣意のうち、判例違反をいう点は、所論引用の各判例はいずれも事案を異にし本件に適切でなく、その余は、違憲をいう点を含め、実質は単なる法令違反、事実誤認の主張であって、刑訴法四三三条の抗告理由に当たらない。

(職権による判断)

原決定及びその是認する原原決定の認定によれば、警察官である被疑者林敬二及び同久保政利は、職務として、日本共産党に関する警備情報を得るため、他の警察官とも意思を通じたうえ、同党中央委員会国際部長である請求人方の電話を盗聴したものであるが、その行為が電気通信事業法に触れる違法なものであることなどから、電話回線への工作、盗聴場所の確保をはじめ盗聴行為全般を通じ、終始何人に対しても警察官による行為でないことを装う行動をとっていたというのである。

ところで、右の行為について、原原決定は、「相手方において、職権の行使であることを認識できる外観を備えたもの」でないことを理由に、原決定は、「行為の相手方の意思に働きかけ、これに影響を与える職権行使の性質を備えるもの」でないことを理由に、職権を濫用した行為とはいえないとして公務員職権濫用罪に当たらないと判断した。これに対し、所論は、公務員の不法な行為が職務として行われ、その結果個人の権利、自由が侵害されたときには当然同罪が成立し、本件盗聴行為についても同罪が成立すると主張する。

しかし、刑法一九三条の公務員職権濫用罪における「職権」とは、公務員の一般的職務権限のすべてをいうのではなく、そのうち、職権行使の相手方に対し法律上、事実上の負担ないし不利益を生ぜしめるに足りる特別の職務権限をいい(最高裁昭和五五年(あ)第四六一号同五七年一月二八日第二小法廷決定・刑集三六巻一号一頁参照)、同罪が成立するには、公務員の不法な右の性質をもつ職務権限を濫用して行われたことを要するものというべきである。すなわち、公務員の不法な行為が職務としてなされたとしても、職権を濫用して行われていないときは同罪が成立する余地はなく、その反面、公務員の不法な行為が職務とかかわりなくなされたとしても、職権を濫用して行われたときには同罪が成立することがあるのである(前記昭和五七年一月二八日第二小法廷決定、最高裁昭和五八年(あ)第一三〇九号同六〇年七月一六日第三小法廷決定・刑集三九巻五号二四五頁参照)。

これを本件についてみると、被疑者らは盗聴行為の全般を通じて終始何人に対しても警察官による行為でないことを装う行動をとっていたというのであるから、そこに、警察官に認められている職権の濫用があったとみることはできない。したがって、本件行為が公務員職権濫用罪に当たらないとした原判断は、正当である。

なお、原原決定及び原決定が職権に関して判示するところは、それが公務員職権濫用罪が成立するための不可欠の要件を判示した趣旨であるとすれば、同罪が成立しうる場合の一部について、その成立を否定する結果を招きかねないが、これを職権濫用行為にみられる通常の特徴を判示した趣旨と解する限り、是認することができる。

よって、刑訴法四三四条、四二六条一項により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官坂上壽夫 裁判官伊藤正己 裁判官安岡滿彦 裁判官貞家克己)

特別抗告申立書

申立の趣旨

前記両決定を取り消す

本件を東京地方裁判所の審判に付するとの裁判を求める。

申立の理由

一、前記両決定は、憲法前文、同第一一条、同第一三条、同第一五条第二項、同第一九条、同第二一条第一項、同条第二項、同第三一条、同第三五条、同第八二条第一項、同条第二項但書、同第九七条、同第九九条などを無視、かつ否定したものであって、憲法違反若しくは憲法解釈に誤りがある。

二、前記両決定には、昭和三八年五月一三日最高裁決定(行為について「外観」とか「相手方の意思に働きかけ、これに影響を与え」る性質を有さなくとも、公務員職権濫用罪の成立を認めている)並びに昭和五七年一月二八日最高裁決定及び昭和六〇年七月一六日最高裁決定(この最高裁両決定とも行為の右性質を公務員職権濫用罪の成立に必要な要件としていない)に明白に相反する判断をした誤りがある。

また、前記両決定には、昭和二八年一〇月一日東京高裁決定(秘聴を職権「濫用」とした)及び昭和四三年三月一五日東京高裁判決(職務権限の不法行使があれば公務員職権濫用罪が成立しうるとした)にも明白に反する判断の誤りがある。

三、前記両決定は、公務員職権濫用罪の成立範囲につき「外観」とか「相手方の意思」とのかかわりとかを行為に必要な要件とし、いたずらにその成立範囲を限定した。しかし、本罪は職務権限の不法行使とこれによる客観的な権利妨害の存在をもって成立し、本件はその事例にあたるのであるから、前記両決定には結論に影響を及ぼすべき法令違反がある。右両決定を取消さなければ、著しく正義に反する。

四、前記両決定は、被疑者田北紀元及び同家吉幸二につき、被疑者林敬二及び同久保政利との共謀関係を否定するか、あるいは事実認定を回避した。しかし右共謀関係は明白であり、かつ公務員職権濫用罪を構成するものであるから、前記両決定には結論に影響を及ぼすべき重大な事実誤認がある。この点についても右両決定を取消さなければ、著しく正義に反する。

五、よって、本件特別抗告を申立てる次第であるが、追って詳しい申立理由を提出するものである。

特別抗告申立理由補充書

第一、原決定は最高裁判所の判例等と相反する判断をしている

原決定は、最高裁昭和三八年五月一三日決定及び東京高裁昭和二八年七月一七日決定に違背する。

一、最高裁昭和三八年五月一三日決定(和解調書に関する執行官の事例)について

「行為の相手方の意思に働きかけ、これに影響を与え」(原決定)ることのない場合について本罪の成立を認めた判例がはっきり存在する。和解調書に関する執行官の事例である。原決定は右最高裁決定に明白に違背している。

右最高裁決定は次のように判示する。「本件公示札を第一審判示各土地に立てた被告人真佐喜竜一の所為をもって、執行吏の職権を濫用して右各土地所有者の権利の行使を妨害したものに当るとした原判断は正当である。」

そして、権利妨害が実現し、職権濫用行為が既遂となった点については右事件についての控訴審の左の判示部分で一層明確となる。

「従ってさらに、原判決が挙示の証拠により、被告人両名が同真佐喜の職務に関し有印偽虚(原文のママ)公文書を作成した直後、同被告人が知賀重喜、益田美久良等により目的物件の土地として指示された佐々木絹子外三名所有の原判示第一掲記の各土地に同判示のとおり該公示札を立てて行使し、被告人真佐喜が右土地を不法に占有した事実を認定して、その所為をもって執行吏の職権を濫用して該土地の所有者である佐々木絹子外三名の行うべき権利を妨害したものとしたのは正当であって、その認定に誤りがあるものと毫も認められない。」(傍点は代理人)

「土地の立入禁止、立木の伐採搬出禁止の条項とともにその土地を『本職これを占有保管する』旨記載された公示札が、執行委任を受けた執行吏によって、相手方たる執行債務者以外の所有する表示建物以外の土地に立てられたときは、その公示札が適法に撤去されるまでの間、当該土地は右執行吏の占有保管するところとなり従ってその土地所有者等はその間、その土地に対する占有権その他の権利の行使をなし得ないこととなるものである。」

右最高裁決定は、被害者の「意思」を媒介させることなく権利の侵害が発生していることを認めるのである。引用した右の件についての最高裁決定部分も、公示札が立てられてから撤去されるまでの間、権利侵害があるとしている。

これに対し、右事件の弁護人は権利侵害には意思を媒介すべきとの立場から左のように上告趣意において主張した。

「本件の公示札を誤って、公示札に記載のない自己の土地に立てられた福岡三雲、緒方大典の原審第二回公判に於ける供述によるも、同人等は公示札は誤って立てられたものと受け取っており自己の土地に効力が及んでいるとは考えてもいないし、之が社会の通念というべきであり……」

しかし、この主張は容れられなかった。このように最高裁決定の立場は明確である。右決定の事案の特質は左の点に整理できる。

① 被害者に認識されることなく職務権限が行使された。

② 公示札を立てた行為の客観的な側面に着目して、直ちに権利の侵害が認定され、被害者の意識(気づいていない点も含めて)は問題とされなかった。

③ 更に、被害者の中には公示札は誤って立てられたものと受け取ったものもいたように見うけられるにもかかわらず、この点も問題にされなかったものと思われる。

このように被害者の意思活動を問題とせずに権利侵害を認定したのが最高裁の立場であり、これが占有権という権利の特質からみて最もふさわしい解決だったのである。

被害者が受けた権利侵害について意思活動の媒介を必要条件とした本件高裁決定は、違法かつ著しく不当であり、先行する最高裁判例に違背するものである。

二、東京高裁昭和二八年七月一七日決定(いわゆる十日町事件決定)について

前述のように、原決定は最高裁判例に違背するものであるが、本件の事案とより近い事例においての先例が高裁決定に存在する。頭書いわゆる十日町事件である(以下単に十日町事件という)。

右は電話盗聴についての先例ではなく、隣室からその隣室の管理者の了承を得て行った秘聴についてのものであるが、本件に関しては、「職権の行使」についての要件解釈を行い、国民の権利の妨害であれば職権の濫用にあたることを明らかにしている。前述の最高裁判例に加え、この事例も本件についての先例にあたり、原決定はこれにも違背している。

十日町事件決定の判示するところは次のとおりである。

① 本件において、警察官による秘聴という事実が実在しているが、そのために「所謂谷矢一郎等が国民として有する住居、言論、結社等の自由に関する基本的人権が脅威又は侵害を受けた」といえるかどうかが問題となる。

② 「若し右秘聴行為に際して右の脅威を伴いその結果所論基本的人権が一般的に侵害せられたことがあるとすれば、それは畢竟職権行使の限度を超えたものとして、その濫用に該当するに外ならないと謂わなければならない。」

③ しかし本件において、何人も行うべき権利は妨害されていない。

「何となれば、同条にいわゆる行うべき権利を妨害するとは、一定の権利が具体化し、それを現実に行使し得る具体的条件が備わった場合において、公務員が、その職務執行の具体的条件が備わらないにかかわらず、現実に右の権利行使を妨害することを意味するのであって、前示谷矢一郎等の基本的人権に抽象的に脅威若しくは侵害を与えるにすぎない行為は未だ以て右権利行使の妨害に該当することができないからである。」

要するに十日町事件決定は、警察官の秘聴によって第三者の権利行使につき脅威又は侵害が加えられたのであれば、それは職権行使の限度を超えた職権濫用行為である、というものなのである。

言うまでもないが右の「秘聴」は被害者に気づかれないようにひそかになされるものなのである。つまり、「行為の相手方の意思に働きかけ、これに影響を与えて、義務のないことを行わせ、又は行うべき権利について不行使を余儀なくさせるに足りる性質のもの」(原決定)に該当しないことは明らかである。十日町事件決定では行為の相手方の「意思」は全く問題とされていなかったのである。

ところで、十日町事件決定では、「一定の権利が具体化し、それを現実に行使する具体的条件が備」わっていることが必要とされ、この事件の場合はそのような「具体的条件」が備わっていない、とした。

念のためふれておくが、十日町事件決定は、行う可き権利の妨害について、単に「権利行使の侵害」と解しており、積極的意思の介在を不可欠の要件とするような限定は加えていない。これは、「行フ可キ権利ヲ妨害スルトハ権利ヲ行使スルコトヲ妨害スルコトヲ謂フ」(泉二新熊「刑法各論」)との定説に従ったものである。そして、限定を加えたのは権利の具体性についてのみであった。

十日町事件においては、住居、言論、結社の自由に対する侵害の有無が問題であったが、これらの権利のとらえ方について、「権利の妨害をこのように狭く解することについては疑問の余地がある」(団藤博士刑法綱要各論改訂版一二一頁註八)、「本件所定の権利とは法律上のそれであればたり、具体的権利か抽象的かの差異をとわない。焦点は、それが職権の濫用として侵害されたか否かに依存するからである。」(注釈刑法(4)三七七頁香川)など厳しい批判が相次いだ。権利の妨害を狭く解した十日町事件を支持する意見は見あたらず、決定の立場は孤立無援といってよい。決定において裁判長を務めた久礼田益喜判事もまた決定直後の昭和二八年八月二〇日の「秘聴と職権濫用罪」において左のように決定批判をしている。

「日本の舊刑法第二百七十六條及び現行刑法第百九十三条の規定は、從來の支那法系的傳統を離れてヨーロッパの大陸法系の影響を受け、明らかに前述第十九世紀の中葉における政治的運動から派生したものである。しかし舊憲法下の日本においては、主權は天皇又は日本國家に在り、官僚主義の行政が行われていたから、一般公務員の職権濫用罪も、臣民のためにというよりは寧ろ公務員のために有利に解釋、適用されていたように思われる。特に職権行使の適法性や職權濫用の故意並びに『人ヲシテ義務ナキ事ヲ行ハシメ又ハ行フ可キ權利ヲ妨害シタル』ことについて具體的事實性を要求することなどについて示された通説的見解において、確かに舊國家思想が表現せられていたように思われる。前掲無罪の觀方は、正しくかかる思想に基く法技術によって行われたものである。しかし主權が国民に在るとし、新自然法的諸原則を明規して國民の人格的尊嚴を認め、人道を以て法令を規制しようとする現憲法下の刑法に對しては、おのずからそれに相應して民主主義的な解釋を施さなければならない。職權濫用罪についての日本刑法の條規の形式そのものは、憲法改正の前後を通じて、毫も變わっていないけれども、その解釋の基準となる原理が、憲法改正を境として根本的に變わったのであるから、その解釋方法が全面的な變更を受けるのは理の當然である。前掲有罪の觀方は、かかる新しい解釋によって試みられたものであると謂えるであろう。」

右引用部分を含め同判事の論稿から読む者にひしひしと伝わってくるのは同判事の考えに対し、同調しなかった者へのはがゆさであり、納得できない理由で反対されたことについての同判事の怒りである。決定の立場がいかに偏狭であったかを示す証左というべきである。

第二、判決に影響を及ぼすべき法令の違反(法令解釈の誤り)

原決定は、職権濫用行為を手段として「行うべき権利を妨害する」ことを要するから、職権濫用行為は「行為の相手方の意思に働きかけ、これに影響を与える」性質のものであることを要するとした。つまり濫用行為の結果において相手方の意思が影響を受けることを要するという解釈を前提とした論法である。

構成要件の解釈において、結果の要件から行為の要件を導く論法が正しいのかどうかこれ自体一つの問題であるが、いずれにしても、原決定は、本罪の結果についてこれを限定する要件の設定を行ったわけで、その要件の設定が正しいものであるかどうかが吟味される必要がある。

一、原決定の不合理さ

原決定は、既に述べたとおり、相手方の意思に影響のあった権利妨害と影響のない権利妨害を峻別し、前者を本罪における結果の要件として限定する。それでは、この峻別の根拠は何なのか、そこに合理性はあるのだろうか。これについて原決定は何も答えていない。私たちはこのような峻別を行うことには、一片の合理性もない、と考える。

(1) 保護法益から

本罪の保護法益については、これまで、国家的法益(公務員の職務の適正)、社会的法益(国民全体の奉仕者である公務員に対する国民の期待、信頼)、個人的法益(国民の人権)など、諸々の角度からのアプローチが行われている。

しかし、右のうち、国家的法益をとっても、公務員の職務のうち「相手方の意思に影響を与える」職務の適正だけを本罪の法益として限定する論拠は生じえない。社会的法益をとっても、「相手方の意思に影響を与える」職務を担当する公務員への期待、信頼だけを特別に保護する論拠がない。これは、もともと公務員の職務が「相手方の意思に影響を与える」か否かで区別されていないからである。また個人的法益をとっても「意思が影響」された人権侵害だけに限定して保護しようとする論拠は全くない。

つまり、この罪の法益が第一次的であれ、あるいは社会的法益や国家的法益と並列的であれ、侵害を受けた国民の権益にあることを承認するかぎりは、「相手方の意思に影響を与える」行為と、そうでない行為とを区別して、前者のみが可罰的で、後者は不可罰的であるとする理由をみいだすことは、どう考えても不可能である。なぜならば、権利侵害をうけた国民の立場に立つと、両者は等しく処罰されるべきであり、むしろ「相手方の意思に影響を与えない」場合にはその発見、摘発がいっそう困難で、しかも行為者に違法性の認識がより強度であることをつねとするから、いっそう厳しく処断されるのが当然であるからである。そして国民の権益を擁護する立場から見ると、職務の適正確保の必要は、それがどんな態様をとろうとも少しも変わらない。

保護法益についていかなる構成をとるかは後述するが、要は、いかなる構成をとろうと、本罪の結果を「意思」で限定するという論拠は全く出てこないのである。

(2) 刑法の構成から

本罪(一九三条)の特別罪として、一九四条(特別公務員職権濫用罪)がある。また一九四条は二二〇条、二二一条の逮捕監禁罪の特別罪でもある。いずれも法条競合である。

ところで、逮捕監禁罪は、被監禁者の意思に影響を与えなくとも、すなわち被監禁者が監禁されていることに気づかない場合にも成立する(広島高判五一・九・二一判例時報八四七―一〇六、学説多数)。従って一九四条の場合も同様である。例えば適法な任意取調中に、警察官が被取調者に知られずに取調室に鍵をかけるなどして監禁した場合がそれにあたる。

ところが、原決定がいうとおりに本罪では「意思に影響を与える」結果が必要だということになれば、一九四条は本罪の特別罪ではなくなることとなる。これが現刑法の予定しない構成となることは明らかである。

(3) 「権利」の規定から

本罪は、結果として妨害される客体の重要な要素が「権利」であることを明言している。「行うべき」との用語は「権利」の修飾語である。しかるに原決定はこの妨害の客体の概念に「意思」を介在させることにより、この「権利」と規定した価値を実質上無意味にしている。

権利という場合、何も権利者の意思を絶対的な本質とするものではない。意思能力がなくても権利能力はある。権利は存在すること自体に重要な価値が与えられているからである。自由権はもとより、所有権、人格権など多くの主要な権利を考えてみても、権利者の権利に関する意思を論ずる以前に権利としての価値は客観的に定まっており、意思への影響の有無で権利妨害の有無が定まるという関係にはない。この意味で、原決定は、本罪の「行うべき権利を妨害」との法文を「行うべき意思を妨害」と変更したに等しく、不当である。

二、原決定に内在するとみられる誤解

前項で述べたように、原決定には法の理念から何らの合理性を見出すこともできない。にもかかわらず、原決定が「意思」にこだわったのは何故であろうか。決定それ自体は何も触れていないのであるが、いくつかの点が推測される。しかし、それぞれはみな誤解というほかない。

(1) 強要罪類型と見たか

まず、原決定が、本罪を強要罪類型と理解したということが考えられる。

しかし、一審、二審の段階でも述べたとおり、本罪と強要罪は、国家的法益や社会的法益をも含むかという点で法益、罪質が同一でないこと、法定刑上も同一類型化する関連性がないこと、少なくとも現憲法下の学説の大半がこうした立場をとっていないことなどから、両罪を同一類型化できるものではない。

たしかに両罪は、行為の結果について「義務なきことを行わしめ、又は行うべき権利を妨害し」と同一の文言が規定されている。しかし、強要罪が行為の相手の意思を問題とするのは、行為の態様として相手方に対する暴行脅迫が要件とされるからであり、結果の要件からではない。結果の文言が同一であるからといって両罪を同一類型化することも、本末転倒である。

(2) 「行うべき」との文言にとらわれたか

次に、現決定が本罪の結果について「行うべき」との文言があることから、これを「行なう意思をもった」とか「現に行おうとしている」と解して結論を導き出したことが考えられる。

しかし、第一に、「行うべき」を「行なう意思をもった」などと解する立場は、前述の強要罪類型化する古い考え方のほかには皆無といってよいもので、法の常識に反する。

第二に、右の理解は立法経過に反している。

当時の「行うべき権利」の解釈をめぐってなされた審議は、ここで注目しておくに値する。すなわち、衆議院の審議において、「権利を妨害し」で十分理解できるのに「行うべき」という文言を用いることは無意味であるとする森田卓爾とこれに答える政府委員との質疑において次のような遣り取りがなされている(膳所祥之助編「貴衆両院刑法改正審議集」)。

○磯部四郎君 こういう意味あいでありますまいか。なるほど権利というものは誰にでもありますけれども、しかしその行わんとしたる権利を妨害して初めて本条の罪があるので、たとえ権利がありましても、自分で行わない、すなわち選挙権の如きもので、自ら選挙にでも出掛けんとする際に妨げますれば、この罪が成立しますけれども、唯選挙権があると云うても、自分に放棄する覚悟があるものを行わせなかったものにはこの罪は成立しない。それでこの「行うべき」という文字が別であるまいか。心得のために伺って置きます。

○政府委員(倉島勇三郎) 原案の趣旨は全く唯今お述べになりました通り、単純に権利を妨害すると云うことでなく、権利の執行を妨害するということのためにかくの如く書いたのであります。

○森田卓爾君 そうすると云うと、唯今の政府委員の御答だと云うと、これはまさに為さんとする、まさに行わんとする権利の執行を妨害したと云うことになるのですか。明らかに確かめて置かぬと大変なことになります。

○政府委員(倉島勇三郎) ここに正当に為すべきことの出来た場合にそれをなさせないと云うのは本条の罪である。

○森田卓爾君 そうすると唯今の磯部君の趣意と添わない、唯今の磯部君の誘き出した質問は、これは権利の執行を妨害することであろうと云う御尋ねであったのに、政府はそうでない。権利の執行どころでない、まさに行わんとしつつある場合のみを指すという御趣意のように承りましたが、果たしてそうだと大変に狭い意味になる。義務なきことを行わせるということは、絶対に如何なる義務でも、行うと思わない義務でも、尚も義務なきことを行わせれば罰する。しかして権利の方では今やまさに行わんとしつつある分だけを罰すると云うことになると、第一権衡が取れぬ。そんな権利の妨害だけを罰すると云うことはこの百九十四条の精神は貫徹せぬことになる。

○政府委員(倉島勇三郎) 御意見の相違は止むを得ませぬが、しかしながら唯今の御説の中にまさに行わんとしつつある場合に限ると云うことは、あるいは私の言違いであるか、あるいはあなたの間違いであるか、そう云うことは言わない積もりであります。当然為すことのできるそれを妨げると云うことを申した積もりでありますから。

「行うべき」を削除せよとの森田の修正案は否決されたが、「行うべき権利」の解釈は、「まさに行わんとしつつある権利」といった狭い意味ではなく、「当然為すことのできる権利」という広い意味であるという答弁を引き出したのである。当時の権利観念の広い意味での理解が確認されたといえよう。

このことは、「行うべき」という文言を理由として権利妨害の範囲を非常に狭く、「まさに行わんとしつつある権利」妨害のみが職権濫用罪の結果であると解釈してきた理解には、実は正当な根拠がなく、逆に、「当然為すことのできる権利」妨害があれば職権濫用罪が成立するという理解の方が正当なものであることを示している。「行うべき」とは客観的可能性をいう文言である。

第三に、そもそも仮に「行うべき」を「行う意思をもった」と解したとしても、決定のように「意思に影響を与える」との要件を導くことはできない。

既に述べたように、妨害する客体が「権利」であることは文言上からも明らかである。「行う意思をもった」とはその「権利」を限定する文言ではあっても、妨害の客体そのものではない。従って、「行う意思」そのものまで妨害する(影響を与える)との結論は生じてこないのである。権利が妨害された場合、その権利を行う意思の有無を別途確かめればよいことである。

(3) 公務員の地位利用との混同をおそれたか

さらに決定が、俗にいわれる「公務員の地位利用」行為との関連で、これにひきづられたとも考えられる。

職権濫用罪と単なる公務員の地位を利用した犯罪とは厳に区別して考えなければならないことは当然である。しかし、もし原決定がこの区別をするための基準として、相手方の意思に対する働きかけと影響の存否を持ち出したとすれば、それは誤りである。

公務員の地位利用とは、一般に、公務員が、権限もないのに、事実上の権威を利用して、相手方の意思に影響を与え、被害を及ぼすことである。

したがって、職権濫用罪を、公務員の地位利用と区別するためには、「相手方の意思への働きかけと影響」という基準は不適切である。両者の区別の基準は、職権濫用行為の行為態様にあるのではない。公務員の行為が客観的に職務権限にもとづくものなのかどうかが肝腎なのであるから、そこをしっかり吟味すれば足りるのである。

(4) 「義務なきことを行わしめ」について

職権濫用罪は、結果の要件として、「義務なきことを行わしめ」と「行う可き権利を妨害する」との二つを定めている。

このうち、「義務なきことを行わしめ」という要件についてみると、その言葉の表現には、「相手方に働きかけ相手方をして特定の意思にもとづく行為を強要する」ことを意味するものと解せられる余地がある。そのように解すると、この結果をもたらす「職権濫用行為」についても、「相手方の意思に働きかけ、これに影響を与える」性質を備えるものでなければならない、との解釈に親しみやすくなるだろう。

しかし、原決定が、かりにこの点にこだわって、もう一つの結果である「行う可き権利を妨害する」と言う要件についても「義務なきことを行わしめ」との対応において、相手方の意思への影響を必要としている、というのであれば、それは誤りである。抗告申立書でも指摘したが、二つの結果の要件は、別個のものであり、それぞれ独自に考察しなければならないし、独自に解釈することが出来るのである。「行う可き権利を妨害」する要件は、独自に解釈すればいいのである。さらに言えば、「義務なきことを行わしめ」という要件についても、相手方の意思への影響と不可分に結びついたものとして考えなければならないものではないと考える。本件の事実関係は、警察官が予め、抗告人宅の電話回線に工作を加えて抗告人宅の電話の通話内容をいつでも聴取することができる状態を作出し、その盗聴可能状態を利用して、現に、抗告人の電話通話を盗聴したというものである。抗告人の立場からすれば、工作により盗聴可能な電話を使って通話すること、そしてその通話内容を盗聴警察官に聴かれることを不可避的に余儀なくさせられていることになる。抗告人には、このような工作のされた電話による通話を余儀なくされる義務はない。ところが、客観的には、警察官の盗聴工作と盗聴行為によって、抗告人はかかる義務のない行為をさせられたのである。この事実を「義務なきことを行わしめ」という文言でとらえることになんの支障もあるまい。被害者である相手方が、余儀なくされているという意識をもつこと、すなわち相手方の意思への影響は不可欠の要素ではないのである。

この点からみても、本件は、職権濫用罪が成立するのである。

なお、この点の理解については、「秘聴における不法性には、……強要手段として暴行又は一定の脅迫と同様の価値を」「認めて差支えない」との久礼田益喜判事の見解(「秘聴と職権濫用罪」七二一頁)は傾聴にあたいする。

同判事の見解は概ね左のとおりである。

① 「職権濫用罪の実体は強要である。強要とは、リストによれば、個々の意志活動、行為、忍容又は不作為を強制すること」としている。わが職権濫用罪についても「ドイツ刑法における強要と同一であると解すべき」であって、「行為忍容又は不作為を強要する」ととらえるべきである。

② 「果たして然らば秘聴において強要の事実があったであろうか」。

「丙某等が秘聴せられている事実を知っていたならば、丁某等に関する談話等をしなかったであろうことは当然考えられる。従って客観的に謂えば、丙某等は甲某によって談話をさせられているのである。彼等は秘聴を知らされていないが故に、それに対して何等の対策も講ずることができない。丙某等は甲某によって全然一方的な勝負を、極めて不公平に、しかも必然的に進行させられている。これを作為の強要の特殊な一場合であると見るのは謬っているであろうか。」

「彼等は主観的には自由に談話をしているけれども、客観的に謂えば、甲某によって忍容同様の不作為を強要せられていることになりはしないであろうか」。

「秘聴は前述したように職権濫用の実質を備えているから、それは策略以上の暴力であるということができる。」

「ここまで考えて来ると、秘聴は不法な強制力を伴った捜査手段であると謂うことができるであろう」。

以上のべてきたことからも、また本罪の文言上からも、本罪は、公務員がその一般的職務権限を悪用し、国民が行使しうる権利を侵害することで成立する。その権利が自由権とかプライバシーの権利とかいわば受動的な権利であっても排斥すべき理由はない。

本件がこれに該当することは当然である。

第三、補論として

なお、本罪の理論構成については、今日まで充分な把握が行い切れていない面もあるので従来の主張も重なるが、次の二点をあらためて指摘する。

一、保護法益について

(1) まず戦前における立法の経緯からみた理解である。

現行刑法典において、職権濫用罪を含む「涜職の罪」は何故「礼拝所及び墳墓に関する罪」と「殺人の罪」との間に設けられているのか。この点の探究を一切度外視した無媒介な国家的法益一元説や二元説は、法解釈の初歩的な手続すら怠ったものとして排斥されなければならない。そうした手続を経たうえで、これを論理的に否定するものであればともかく、最初から手続を一切省略してしまっていたのが、従来の理解の特色なのである。

現行刑法典の草案の審議がなされた帝国議会に提出された「刑法改正政府提出案理由書」には次のように述べられていた(『刑法沿革総覧』参照。なお、以下の引用にあたっては現代用語に直した)。

第二五章涜職の罪

第百九十四条乃至第百九十九条

理由 本章は現行法第二編第九章官吏涜職罪の中その第二節官吏人民に対する罪の規定に修正を加えたるものなり。

………………

第百九十四条は現行法第二百七十六条と同一趣旨の規定にして、改正案は官吏の外広く公務員に関する規定と為したるのみなり。

ここに「現行法」というのは、もちろん明治一五年の刑法典(旧刑法)のことである。また、「第百九十四条」が今の刑法一九三条の職権濫用罪のことである。

政府の提案理由から判明することは、①「第二五章涜職の罪」は旧刑法の「官吏人民に対する罪」の修正であり、②職権濫用罪の規定は、官吏を公務員に広げた以外は、「同一趣旨の規定」である、ということである。

ところでその旧刑法についていえば、第一に、旧刑法はその法益体系を「公益」と「私益」とに二分していたが、官吏に固有の犯罪類型は、「公益に対する罪」と「人民に対する罪」「経済に対する罪」とをひとまとめにして、「公益に対する罪」の最終章に置いていた。この体系的地位は「刑法草案第一稿」以来旧刑法まで不変である。

第二に、旧刑法制定過程に一貫して明僚に「官吏人民に対する罪」という性格づけがなされ、令状によらない逮捕の罪や被告人に対する暴行・傷害の罪などと並べて、しかもその冒頭に配置されていた。「人民に対する罪」という文言が当時どのような意味で用いられていたかは必ずしも明らかではないが、いずれにせよ国家的法益とする理解を排斥するものであることは確実といえよう。

こうした立法経過から導き出される結論はかなり明僚である。

この犯罪の性格は「人民に対する罪」であって、国家の作用や機能に対する罪ではない。旧刑法における体系的地位は「公益に関する罪」の最後、殺人の罪の直前であり、現行刑法における体系的地位も、「公益に関する罪」といった性格づけはないが、社会的法益に対する罪と個人的法益に対する罪との間に置かれている。

本罪は、もともと個人的法益を中心に理解されるべき犯罪なのである。

(2) 戦前における考え方の実情

しかしこの点は、従来そのように理解されてこなかった。

旧憲法のもとでは、官吏(公務員)はなによりも統治権の総攬者たる天皇への忠誠が義務づけられ、職権濫用罪はこの忠誠義務にたいする違反としてとらえられた。当時の官吏服務規律では「天皇陛下及天皇陛下の政府に対し、忠順勤勉を主」とするものとされていたから。職権濫用は天皇と天皇の政府に対する犯罪であった。国民は統治権の対象としての「臣民」であるにすぎず、職権濫用罪によって「臣民」の権利がまもられるのは、せいぜいその「反射的利益」に過ぎなかった。

いま手元にある刑法の教科書をひろげてみると、戦後初期のものであっても、たとえば小野清一郎『全訂刑法講義』(有斐閣、序は一九四四年〔昭和十九年〕六月三十日付、一九四五年八月二十日初版、一九四六年一月十日再版)は、「その処罰の基礎的理由は国家作用の厳正を保護するにある。職権濫用罪にありては、第三者の法益に対する侵害を生ずることあるべく、之を防止せんとする意味を含むこと勿論であるが、その主たる保護法益は国家の司法・行政の作用である」とする。ここでは国民は「第三者」となっていることに注意したい。滝川幸辰ほか二名『刑法』(日本評論社、一九五〇年〔昭和二十五年〕九月三十日刊)は、「刑法で涜職の罪として類型化されている官職における犯罪の本質は、官職的義務の侵害にあり、それが、同時に個人のものであれ社会のものであれなんらかの法益を侵害・脅威する点に求められる」とする。

その後においても職権濫用罪の保護法益は、国家の威信あるいは公務の適正として説かれるのが一般で、「被害者たる個人の利益の保護は、国家的法益の保護に伴う反射的効果」にすぎなかった(大塚仁『刑法各論・下』一九六八年〔昭和四十三年〕刊、青林書院新社)。

(3) このような理解の流れにたいして、早くから的確な批判を展開してきたのが、熊倉武であった。熊倉の『日本刑法各論』(法律文化社、一九六一年九月十日刊)はつぎのようにのべていた。

「そもそもが、近代市民国家は、主権が国民に存することを不可侵的・不可譲的な基本的構成原則として構成されているものである。したがって、『国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを亨受する』(日本国憲法前文・一節)ことが人類普遍の原理であること、それゆえに公務員の選定・罷免権が主権者国民の固有の権利であり、公務員は主権者国民全体への平等的奉仕義務をおう公僕たる地位にあるもの(憲法十五条)であることが宣言されているのである。そうだとすると、涜職の罪――すなわち、公務員の不当な行為によって国家または公共団体の権力作用(公務)の公正な執行を侵害するごとき行為には、とうぜんそれによる直接的な被害者たる主権者国民の権利・自由・利益が第一次的な刑罰による保護の客体とされてしかるべきであるし、またされなければならないはずである。したがって、涜職の罪にたいする可罰的違法性判断の価値基準は転換され、法益主体の転位が必然的なこととして考慮されてしかるべきはずなのである。」

(4) 熊倉教授の卓越した批判は、やがて支持をひろげていった。一九六八年(昭和四十三年)三月十五日の東京高裁判決は、保護観察官が保護観察期間をすぎた女子を呼び出して猥褻行為をし、また保護観察期間中の女性を呼び出して面接した機会に猥褻行為をした事件について、いずれも職権濫用罪にあたらない、という判決をくだした。前者については「保護観察官の職務の対象は現に保護観察に付されている者に限られ、保護観察期間経過後の者は含まないと解するのが相当である」から呼び出し、面接の権限はなく、したがって職務行為とはいえないし、後者については、猥褻「行為そのものはもとより被告人の職務に属する行為ではない」として無罪とした。これはもっぱら職務権限を狭く解することによって、被害者の女性の人権を軽んじたものであった。

この判決を機縁に鈴木義男が「公務員職権濫用罪における職権濫用の意義」(『研修』二四五号、一九六八年十一月)を発表し、職権濫用罪の保護法益論にさかのぼった立場から、職務権限をもっと抽象化してひろく解することによって、この罪の成立をひろげることを主張した。鈴木は、熊倉の見解にふれながら、職権濫用罪の規定について、つぎのようにのべ、保護観察期間経過の呼び出しをふくめて職権濫用とすべきことを主張した。

「素直に読む限り、公務員の職権濫用行為に対して一般国民の自由を保護しようとする点にこの罪のもっとも重要な特徴を求めるのがむしろ自然ではなかろうか。」

「規定の位置ということだけから職権濫用罪における個人法益保護の面を第二次的なものにすぎないとみることは困難であろう」

「まず職権濫用罪が主として個人の自由を保護するものであるとすれば、『職権を濫用し』という用語の通常の意味を歪めたり、公務員の正当な職権の行使に支障を生じさせたりすることにならない限り、この罪の成立する場合をなるべく広く認めることが国民の権利の保護に厚いという点で望ましく、職権濫用の基礎となる公務員の一般的権限をなるべく抽象的に理解するのが法の趣旨に合するということになる」

なお、鈴木が「職権濫用罪について準起訴手続という特別手続が採用されていることも、単に検察官の不当な不起訴処分を抑制するためだけでなく、被害者の保護をいっそう厚くするためであり、この犯罪の保護法益として個人の自由という面を強調しているとみることができるであろう」とのべていたことは、すぐれた見解であった。この指摘は準起訴手続の手続き面を考えるうえでも示唆的である。

これらの主張は、のちに鬼頭元判事補の事件についての最高裁判例(一九八二年〔昭和五十七年〕一月二十八日、最高裁第二小法廷決定)へと発展的につながっていった。『最高裁判所判例解説刑事編昭和五十七年度』掲載の金築誠志の判例解説は、鬼頭史郎元判事補事件の展開について、鈴木らの批判が「強い影響を与えている」ことを認め、「職権濫用罪が相手方たる人の行動の自由をも保護しようとしていることを承認し、職権仮装行為の認定基準からそこから導き出している」としていた。その意味ではこれらは、職権濫用罪についての積極的な新しい流れとみることができるし、この新しい流れがこの罪の保護法益はなにか、という根本にさかのぼって問題を洗い直そうとするものであったことをみておきたい。

(5) いわゆる宮本身分帳閲覧事件についての最高裁決定(昭和五七年一月二八日第二小法廷)における栗本裁判官の補足意見は直截に左のように述べている。

「公務員職権濫用罪の設けられた趣旨は、国権の作用の適正あるいはその威信を保持するとともに、公務員の職権濫用行為によってその相手方たる個人が不当に行動の自由を奪われることのないよう、これを保護しようとする点にあるものと解される。従って、同罪の成立要件である一般的職務権限についても、明文の根拠規定が存する場合に限る等、徒らに形式的な解釈に陥る事なく、より実質的な観点から考える必要がある。ここでは、公務員の国民に対する権力発動の根拠の有無が問題となっているのではなく、逆に、公務員の不当な行動を抑圧するための要件をいかに解するかということが問題なのであるから、一般的職務権限について厳格な解釈をしなければ法治主義に反することになるわけのものではない。」

そして、本件についての地裁、高裁決定でもその理由中で本罪が個人的法益をも保護法益としていることを明確にした。

また、右最高裁決定は、保護法益の点には言及していないものの職権の解釈についても権利侵害についてもより広い範囲について同罪の成立を認める判断を下し、前記栗本意見と軌を一にするものとなっているのである。

(6) 本罪を個人的法益の視点からとらえるということは、本罪を国民に対する人権侵害の犯罪としてとらえるということである。そうであれば、「意思への影響」をわざわざ介在させる余地はない。本項冒頭に述べた結論は一層明白なのである。

二、付審判請求の制度

(1) 戦後の刑事訴訟法は、公務員が職務に関連して国民の人権を侵害した犯罪(本罪の外刑法一九四条乃至一九六条、破防法四五条)について、付審判請求の手続を認めた。これが戦前の公務員による職務執行における人権侵害の続発と、にもかかわらず検察の甘い処分という事態に強い反省を示し、こうした犯罪に特別の政策をもって、被害者であり主権者である国民の関与の途を開くことを眼目としたものであることはいうまでもない。

ところで、こうした意義・目的をもつ付審判請求の対象となる犯罪については、右の通り条文を限定している。それは何も職務に関連した公務員による人権侵害の犯罪をことさらに限定し、それ以外を免罪するというものでは全くない。むしろ逆に、付審判請求の対象となる犯罪類型にはひとつの基本型があるからにほかならない。そしてこの基本型が本罪以外にないことも明白である。つまり、付審判請求の制度の制定経緯は、本罪が職務に関連した公務員による人権侵害犯罪の基本として考えられていたことを示すのであり、これにいたずらな限度を付することは、予想もしていないし、制定経緯の趣旨を没却するものである。

決定は、こうした点に照らしても、明らかに誤りである。

(2) こうして導入された付審判請求は、本件とのかかわりにおいて、次の二点の特徴が重視される必要がある。

第一は、別に準起訴手続といわれるように、審判に付することの可否が問われる本件審理の目標は、審判手続上の判断を求めるに足る一応の合理性があるか否かを見極めることである。これは、事実認定についても、法令解釈についても、当然にあてはまることであり、これらについて最終確定の判断を行うことこそ逆に誤りである。本件が、本罪に該当するか否かについて、少なくとも、その該当性を本件審理で否定し切ることは、右の点に照らして到底妥当なこととは思われない。特に次の判例の考え方からしても、被告人の救済は(あるとすれば)審判の中で考慮すれば充分な事案である。

宮本身分帳閲覧事件の付審判決定に対する特別抗告事件につき、最高裁は「刑訴法二六六条第二号の決定については、審判に付された被告事件の訴訟手続において、その瑕疵を主張することができる」から、特別抗告は理由がないとし(最高裁第一小法廷決定昭和五二年八月二五日、判例時報八五九号一二頁)、同事件の差戻し後控訴審判決が付審判による「公訴の提起が被告人に対し、一定の負担と不利益をもたらすことは否定し得ないが、最終的に利益を奪うものではなく、公判審理の手続において……事件の内容を告知して弁解の機会をあたえれば足り」るとしている(東京高裁昭和五八年一二月一五日、判例時報一一〇〇号四七頁)。

第二に、審判に付した場合、何も本罪だけでなく、別罪でも罰することが出来ることである。

いわゆるやぐら荘事件二審判決(仙台高裁昭和四七年五月一二日)は、事実を一審判決よりも縮小認定の上、左の如く述べて被告人に暴行罪のみの成立を認めた。

「付審判決定によって、公訴の提起があったとみなされた時、その事件は裁判所の決定によって審判に付されたものであるから、公訴の維持に当たる指定弁護士がなす訴因の変更は右決定の趣旨を没却するものであってはならない。しかし、審理の経過に従って、基本的事実について別個の法律構成が可能になったときのように、公訴を維持するため訴因変更の必要を生じた場合にその変更の請求をすることは、指定弁護士としての当然の職責であり、実体的真実の発見に奉仕する所以でもあり、何ら右決定の趣旨に反しないというべきである。」(判例時報六六九号三三頁)。

本件が電気通信事業法違反に該当していることは明白である。

本件を審判に付しても被告人の有罪の結論は左右しえない。つまり、本件を審判に付しても、実質的には罰条の適用範囲が争点になるだけのことであり、被告人の不利益の可能性といっても実体的には皆無に近いのである。

こうした点からも、本件は審判に付すべき事案と考える。

特別抗告申立理由補充書<省略>

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